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きららの会と出会って

働く喜び実らせて
きららと私

マッサージの現場で働くきららの仲間達、その姿に勇気をもらって・・・

働く喜び 実らせて


34歳の春、
私は新たなる旅立ちを胸に抱き、
大阪市立盲学校に入学しました。
私の人生の再出発には、
仲間との出会いが大きくかかわっています。
「障害を持っても立派に働き、自立している仲間がいる」
私はきららの仲間の姿に、
自分自身の将来への希望を思い描くことができました。

23歳の4月よりサラリーマンとして働き始めた私は、
入社して約半年が過ぎた頃、
仕事で車を走行中、事故を起こしそうになりました。
トンネル内の暗さに眼が馴染まず、
側壁に危うく衝突しそうになりました。
私は翌日、病院に行き、
医師から“網膜色素変性症”と告げられました。
しかし、私には実感が沸きませんでした。
「車の運転は、今後止めて下さい。」
私の脳裏には仕事のことがすぐ浮かび、とにかく焦りました。
「大好きな仕事が出来なくなるかもしれない」
私は会社へ即、病気のことを正直に報告しました。
すると会社は私に配慮下さり、
営業職から内勤の事務職に配置転換して下さいました。
職種は変わっても仕事は続けられる、
会社にも留まれることに、ホッと安心しました。
「これからは定年まで、事務職で頑張って行こう」
配慮して下さった会社に感謝し、私は日々仕事に励みました。
しかし、私が想像していた以上の速度で
病気は進行して行きました。
書類やパソコンの画面が見え辛くなって行き、
同僚や後輩たちが次々と責任のある仕事を任されて行く中で
私はそれまで出来ていた仕事でさえ、
思うように捗らなくなって行きました。
「この病気は、私から仕事までも奪い取ってしまうのか」
その頃から、私は自身の病気と真剣に向き合うようになりました。

「同じ弱視の人達、同じ世代の人達から情報を得たい」
私は視覚障害者の集まりにも、参加するようになりました。
その一つがきららの会でした。
そこにはたくさんの自立した仲間、
自立のために勉強をしている仲間がいました。
按摩・マッサージ・指圧・鍼灸の存在を知り、
その仕事への思いを募らせて行きました。
「確かに眼は悪いが、自分には丈夫な“腕・手・指”がある。
盲学校へ入学し、“あ・は・き”の道を突き進もう!」
私は11年間勤めてきた、大好きな会社を自ら退職しました。
会社の方々と別れる寂しさ、
会社に充分恩返し出来なかった悔しさ、
そして何よりも、一旦“働くこと”から離れてしまう辛さで、
その日は涙が溢れ止まりませんでした。
しかし、いつまでも感傷に浸ることなく、
色々な思いは胸の中にしまい込み、
新たな希望を抱き、大阪市立盲学校の門をくぐりました。

入学式の日、
私はじっと耳を澄ませ校歌を聴きました。
そして、校歌が3番に差し掛かった時、
あるフレーズが私の心に響きました。
そのフレーズとは、“働く喜び 実らせて”です。
「盲学校でしっかりと按摩・マッサージ・指圧・鍼灸を学び、
3年後、また必ず働きます!」
会社退職の日、
最後の挨拶で上司・同僚・後輩の前で誓った言葉が
歌のフレーズと重なり、胸が熱くなりました。
私にとって、“働くこと”、“働けること”は常に喜び。
その思いが校歌に歌われていたのです。

(大阪市盲校歌 3番)

輝く歴史 大阪市盲

理想も高く 生きる日々

働く喜び 実らせて

雄々しく 飛び立て天空へ

自由と平和の 明日を拓く

この校歌を聴く度、歌う度に、
私は未来に向かって羽ばたく勇気や希望が沸々と湧いてきます。
自分の思う通り行かず壁にぶつかること、
辛いこともこれから数多く出てくるでしょう。
それらが自身の目の病に依るものなのか、
他のものであるのかは分かりません。
そんな時、心の中で、また、時には声に出して、
自らを励まし鼓舞すべく、この校歌を歌いたい、
歌って行きたいと思います。

3年間の学生生活は本当に楽しかったです。
視覚障害者のスポーツとも出会いました。
フロアバレーの社会人チームで現在も活動しています。
無事資格を取得し、平成22年より、
一般企業のヘルスキーパーとして仕事をしています。
社内で働く人のためのマッサージをしています。
今、仕事が本当に楽しいです。
私は自分の仕事に誇りを持ち、
これからももっとがんばっていきたいです。

きららの仲間との出会いは、今の私につながっています。
将来が見えなくて悩んでいた時期に、
きららの仲間が現場でがんばっていることを知りました。
また、国家試験合格をめざしがんばっている仲間を知りました。
交流会の後、そんな仲間をつかまえて
必死に話を聴いたことをおぼえています。
知ること、誰かとつながることは本当に力になります。
これからもどんどん良い仲間作りをしていきたいと思います。

編集後記

「道が見えなくて悩んでいた時、
あのタイミングできららに参加してよかった」
仲間の姿に勇気をもらい、人生の再出発を決意した彼。
彼が全国盲学校弁論大会で発表したスピーチに加筆し、
きららのためのオリジナルとして編集しました。
彼の中途障害からの就労の過程をふりかえりながら、
自分から人とつながる力の大切さを実感しました。
仲間との交流は、情報交換だけでなく、
そこから生まれる力があることを
彼の言葉から私は感じました。
今ではきららの中心的メンバーとして
彼は企画、運営に参加しています。


きららと私


私がきららの会の存在を知ったのは、平成14年の秋でした。
当時、私は京都ライトハウスで生活訓練を受けていました。
訓練を始めて半年が過ぎた頃、障碍者対象の
ピアカウンセリング養成講座を受講しました。
訓練と並行しての受講でしたので、ハードでしたが、
弱視でも学べることが嬉しくて、ウキウキして参加しました。
講座初回の日、同年代の受講生から
きららの会のことを教えてもらいました。
講座参加者の中で視覚障碍者は私を含めて5名。
私は、この時初めて他の障害の人と直接交流しました。
重度の障害を抱えながら尚、ピアカンとしての活動を
希望されている方もたくさんおられました。
一緒に学ぶ人たちの姿に私は大きな刺激をもらいました。
「私も何かしたい。仲間と関わっていきたい」
という思いが、強くなりました。
そんなときに、きららの会と出会うことができ、
私は本当にラッキーでした。
私は、これまで同じ世代の仲間と会うことがなかったのです。
大阪、京都で開催されたきららの会の交流会に次々に参加しました。
20代、30代の弱視の人がそこにはいっぱいいました。
それだけで、私はびっくりしました。
生まれつき弱視だった私は、見えない、見えにくいことを
共感できる人と出会うことなく、過ごしてきました。
いつも心のどこかに、
「みんなと違う私、一人ぼっちの私」を感じながら、生きてきました。
温かい家族や友達も恋人もいたけれど、
やはりコンプレックスや孤独感は
「見えてさえいれば」というキーワードのもとにありました。
障害の有無にかかわらず、誰にだって
コンプレックスはあります。
けれど、「私ってこんなところがだめなんだよね」というふうに
共感できる人と、私は一人も出会うことができませんでした。
それが、きららの交流会に行けば
見えないゆえの失敗を漫才のネタみたいに話せる相手が
山盛りいるわけです。
それも、同世代の似た感覚の仲間です。
「私が知らなかっただけで、
私と同じような困難や失敗に傷ついていた人が
この世界にいはったんやな」
そう思うと、それだけで嬉しかったです。
仲間の存在を知り、実際に言葉を交わし、
「私は一人じゃなかったんや」と思いました。
きららの会は、私の心の支えとなりました。
妊娠、出産、子育てで、きららに参加することが難しくなっても、
私はきららのお知らせをメールで見るたびに
「ちゃんと仲間がいる」
「みんながんばっているんやな」と想い、
ずっと励まされてきました。
そして、子育て奮闘の中、
みんなと会いたいと、いつも思っていました。
きららの会は、こんなふうに私の心の片隅で
私を支えていてくれたのだと思います。
きららを通してであった多くの人達。
転居されたり、それぞれに忙しくなり、
会うことができなくなった人もいます。
でも、メーリングリストを通して
今もお互いの心にエールを送る、そんな大切な仲間です。
これからも、きららの会が
だれかの心に光を齎すことができますように。
きららの仲間、一人一人が
きららの光の花束の一輪となり
人の和をつないでいけますように。

きららの会に心からの感謝をこめて
平成23年秋

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